聞書第二 〇二一八 悪事は我が身にかぶり、上の批判は申出でぬと覺悟せよ 原文 一、御位牌釋迦堂より御移しなされ候を、何某見附け候て、申し達すべきやと相談申され候に付て、「尤もの事に候。斯様の儀存じ寄り候人、今時、御手前ならではこれなき事に候。然れども仰達せらるゝ儀は御無用に候。右申分尤もに候とて、元の如く相成り候時、世上に相知れ、御手前御外聞よくなり申す事に候。若し相濟まざる時は、いよいよよろしからざる儀と取沙汰仕り、御手前御外聞ばかりよく候。悪事は我が身にかぶり申すこそ當介にて候。今の如くして先づ召置かれ候時は、誰ぞ氣の附き申すもこれなく、何の沙汰もなく相濟み申す事に候。さ候とて、何時ぞ、時節次第沙汰なしに、元の如く御直り候様に致す様これあるべく候。」と申し候て、差留め置き申し候。斯様の事にて、上の御不調法、世間に知れ申す事これある儀に候。心を附け罷在り候へば、しかと、よき時節がふり來るものに候。大方、悪事は内輪から言崩すもの也。上の批判などは、一向申出でざるものと覺悟仕るべき事に候。親子兄弟入魂の間などは格別と存じ、隠密沙汰なしなどと申し候て話し候へば、やがてひろがり、後には自國他國日本國に洩れ聞え申す事、間もなきものに候。又下人あたり其の外、内證にて仕方悪しき人は、やがて世上に悪名唱へ申し候。内輪ほど愼み申すべき事也。
聞書第二 〇二一八 悪事は我が身にかぶり、上の批判は申出でぬと覺悟せよ 現代語訳 一、御位牌を釈迦堂から御移しなされたのを、何某が見つけて、報告すべきかと相談されたので、「もっともな事だ。この様な事に気が付くのは、今時では、お手前ならではの事である。しかし、御報告の件は無用だ。右の事は申し分はもっともであるが、元に戻したとき、世間に知れ渡り、お手前の評判は良くなるだろう。もし、それで済まなかった場合、いよいよ良くない事だと取り沙汰されて、お手前の評判だけが良くなるだろう。悪事は自分の身にかぶる事こそ当然の行いである。今の様にまず召し置かれている時は、誰が気づくこともなく、なんの騒動にもなずに済む。そうであっても、いつか、良い時節を見計らって騒動に成らない様に、元の様に直して置く様にするべきだ。」と言って差し止めておいた。この様な事で、上の御不調法を世間に知れ渡る事がある。気を付けていれば、確かに、良い時節が降ってくるものだ。大方、悪事は内輪の者から漏れる。上の批判などは、一向に申し出る事などしないと覚悟するべき事だ。親子、兄弟や親しい間柄などとは別格であると思い、秘密事が無いのが良いなどいって話してしまうと、やがて広がり、後には自国、他国、日本国に洩れ広まってしまうのに、そう時間はかからない。また、下人やその他は、内緒で悪い行いをする者は、やがて世間に悪名が広まるだろう。内緒ごとは慎むべき事だ。