聞書第一 〇一九九 御用に立ち度いといふ眞實さへ強ければ不調法者程がよい 原文 一、古川六郎左衛門申し候は、「主人をして用に立つ者をほしがらぬ主人はこれなく候。我々式さへほしく候へば大人程御大望の事に候。然る處に、何卒御用に立ち度しと思へば、其の儘一致して御用に立つもの也。我がほしきと兼々存ずるものを人が呉れ申すべしと申し候はば、飛懸り取るべき也。此のあたりを諸人氣が附き申さず、一生むだに暮すことと、老後に漸く存じ附き候。若き衆、油斷あるまじ。」と申され候。耳に留めて覺え居り候。何角の分別を止めて、唯御用に立ち度しと思ふ迄の事也。此くの如く思ふまじき事にてはなけれども、色々阻てものが有りて、打破らぬ故、あたら一生をむだに暮すは、返す返す残念の事也。我等式は何として御用に立つべきと、卑下の心にて暮らすもあり。御用に立ち度き眞實さへ強ければ、不調法者程がよき也。智慧利口などは多分害になる事あり。小身にして田舎などに居る者は、家老年寄などと云ふは、神變不思議にてもある様に、思ひのぼせて寄りも附き得ず、親しくなりて心安話などして見るに、不斷御用の事を忘れず、歎かるゝより外に替りたること少しもなし。御用の筋に、左様程奇妙の智慧は入らぬもの也。何卒、殿の御爲に、御家中、民百姓迄の爲になる事をと思ふことは、愚鈍の我々式にても濟むもの也。されども、御用に立ち度しと思ふことが、いかう成りにくきもの也。
聞書第一 〇一九九 御用に立ち度いといふ眞實さへ強ければ不調法者程がよい 現代語訳 一、古川六郎左衛門が言ったことには、「主人として用に立つものを欲しがらない主人は居ない。我々程度の者でさえ欲しいのだから、上の身分の方々は大望しているであろう。そうである所に、なにとぞ御用に立ちたいと思えば、そのまま一致して御用に立つものだ。自分がほしいと普段から思っているものを人がくれると言うのであれば、飛び掛かって取るべきだ。このあたりに、皆気づかず、一生を無駄に暮らすと、老後しばらくしてから悟った。若い衆は油断しない様に。」と申された。耳にとどめて覚えている。何でもかんでも分別するのを止めて、ただ御用に立ちたいと思うだけの事だ。この様に思ってはいけないと言う事ではないが、色々な障害があって、打ち破らないので、やたらと一生を無駄に暮らすのは、返す返す残念な事である。我等程度の者がどのようにして役に立てるのかと、卑下の心で暮す者もいる。御用に立ちたいと思う真実さえ強ければ、不調法者程度で良い。知恵や利口などは多くの場合害になる事がある。小身で田舎などに居る者は、家老、家中などと言えば、神や人智を超えた者であるかのように、思い違いをして寄りつくことも出来ないが、親しくなって打ち解けて話などをしてみると、普段から御用の事を忘れず、主君を嘆いている事は他と少しも変わらない。御用の筋に、その様な奇妙な知恵は要らないものだ。なにとぞ、殿の御為に、御家中、百姓までの為になる事を思う事は、愚鈍な我々ごときでも済むものだ。しかし、御用に立ちたいと思う事が、いかにも成りにくいものだ。