聞書第一 〇一九五 奉公は好き過ぎて過有るが本望、忠の義のと理窟は入らぬ 原文 一、山崎蔵人の、見え過ぐる奉公人はわろしと申されたるは名言也。忠の不忠の、義の不義の、當介の不當介のと理非邪正の當りに、心の附くが嫌也。無理無體に奉公に好き、無二無三に主人を大切に思へば、それにて濟む事也。これはよき御被官也。奉公に好き過ごし、主人を歎き過して、過あることもあるべく候へども、それが本望也。萬事は過ぎたるは悪しきと申し候へども、奉公ばかりは奉公人ならば好き過し、過あるが本望也。理の見ゆる人は、多分少しの所に滞り、一生を無駄に暮らし、残念の事也。誠に僅かの一生也。只々無二無三がよき也。二つになるが嫌也。萬事を捨てゝ、奉公三昧に極りたり。忠の義のといふ、立上がりたる理窟が返す返す嫌也。
聞書第一 〇一九五 奉公は好き過ぎて過有るが本望、忠の義のと理窟は入らぬ 現代語訳 一、山崎蔵人が、見え過ぎる奉公人は悪いと言ったのは名言だ。忠だの不忠だの、義だの不義だの、当介だの不当介だのと理非正邪のあたりに、気を取られるのが嫌なのだ。無理無体に奉公を好み、無二無三に主人を大切に思へば、それで済む事なのだ。これは良き被官だ。奉公を好んで過ごし、主人を憂いて過ごして、過ぎる事などもあるだろうが、それが本望だ。万事はやり過ぎは悪い事だと言うが、奉公ばかりは奉公人ならば好んで過ごし、過ぎるのが本望だ。理の見える人は、多くの場合少しの所にとどまり、一生を無駄に暮らしてしまい、残念な事だ。誠に僅かな一生である。ただただ、無二無三がよい。二つになるのが嫌なのだ。全てを捨てて、奉公三昧に極まる。忠だの義だのという、思い上がった理窟が返す返す嫌なのだ。