聞書第一 〇一九四 殿様を大拙に思ふ事は、我に續くものはあるまい 原文 一、當春権之承處へ、初入り致し候時、「去る暮れより出米休息にて、八月迄は隙を持ち申し候間、此の間、此の間一字一石など書き申すべし。」と申し候に付、意見申し候は、「第一隙なき時節にてこそあれ、當九月に人並に勤めに出ては本望にてなし。出米休息の内に、選びだされてこそ嬉しかるべけれ。然れば唯今が一チ隙なき時也。有無、出米の内に選び出さるべきと、粉骨相はまり候へば、其の儘叶ひ申すもの也。これは我等覺えある事也。十二歳より髪を立て候様にと仰せ付けられ引入り、十四歳迄無奉公にて居り申し候。然る處、御兩殿様御下國御行列を拜し奉り、頻りに奉公仕り度く存じ候に付、巨勢宮に參詣致し、當年五月朔日に召出され候様にと、願を懸け申し候。誠に不思議の事にて、四月晦日に、明朔日より相勤め候様にと仰付けられ候。其の後若殿様御前に罷出度く、いつそ御出での折懸合ひ申すべしと、夜晝心懸け居り申し候處、或夜若殿様御出成され候間、小々姓罷出で候様にと申し來り、早速罷出で候へば、さても早く罷出で候。外に出会ひ候者一人もなく候。よく罷出で候と、呉れ呉れ御意成され候。此の時の有難さ今に忘れず候。一念志し候へば、叶はぬと云ふ事なきもの也。」と申し候處、今度權之丞出米内に御使者仰付けられ、一家の者不思議と申す事に候。若年の頃より見罷りの拙者に候へば、御用に立つ事もなく、出頭人などを見て羨ましき時も候へども、殿様を大切に思ふ事は、我には續き申すまじと存じ出し、これ一つにて心を慰め、小身無束をも打忘れ、勤め申し候。案の如く、御卒去の時我等一人にて御外聞取りたり。
聞書第一 〇一九四 殿様を大拙に思ふ事は、我に續くものはあるまい 現代語訳 一、この春に権之丞の所へ、初入りした時、「去る暮れから待命休職となり、八月までは暇になったので、その間に一石に一字づつ経文を書いて過ごすだろう。」と言っていたので、意見したのは、「第一忙しい時節であっても、今年九月に人並に勤めるのは本望ではない。休職期間のうちに選び出されてこそ嬉しいはず。そうであれば、ただ今が最も忙しい時だ。うむ、休職期間の内に選びだされようと、粉骨しのめり込めば、そのまま叶うものだ。これは私に経験がある事だ。十二歳より髪を立てるようにと仰せ付けられて引き入り、十四歳まで奉公の機会がないままだった。そうしていた所、光茂公、綱茂公、両殿様の御下国の御行列の拝見いたし、奉公したいとしきりに思うようになったので、巨勢宮に参詣し、その年の五月一日に召し出されます様にと、願を懸けた。するとまことに不思議な事に、四月の最終日に、明一日より勤めるようにと仰せ付けられた。その後、若殿様の御前に出たいと、いっそのこと御出での折に掛け合ってみようと、昼も夜も心掛けていた所、ある夜、若殿様が御出で成されたときに、小姓たちは来るようにと指示があり、早速行ったところ、さても早く来たものだ。他にまだ来た者は一人もいない。よく来たなと、かえすがえす感心してくださった。その時の有難さは今でも忘れない。一念志せば、叶わない物は無い。」と言ったところ、このたび権之丞は休職期間のうちに使者を仰せ付けられ、一家の者は不思議がった。若年の頃から見てきた拙者にしてみれば、御用に立つ事もなく、出頭人などを見て羨ましいときもあったが、殿様を大切に思う事は、自分に続く者は居ないと思い、これ一つで心を慰め、小身無束もわすれて、勤め上げた。案の定、御卒去の時は自分ひとりで藩の面目を保った。