聞書第一 〇一八二 御小姓中島山三、百式次郎兵衛方に駆込み心底を見て契る 原文 一、中島山三殿は、政家公の御小姓也。船中にて死去、高尾竈王院に墓あり。中島甚五左衛門の先祖也。或者戀いの叶はぬを遺恨に存じ、「七つ過ぎれば、二合半戀し。」と云ふ小歌を教え申し候。御座にて諷し申され候。古今無雙の少人と譽め申し候由。勝茂公も御執心御座候由。御出仕の時分、山三殿通りがけに御膝に足さわる。則ち居さがり、御膝を押へ、御斷申上げられ候となり。或夜、百式次郎兵衛辻の堂屋敷に山三殿參られ、申し入れられ候に付て、次郎兵衛驚き駈け出で、外に出合ひ、「御前の憚り、外見共に宜しからず、則ち御歸り候様。」と申し候。山三殿申され候は、「唯今遁れぬ行懸りにて、三人切捨て、即座の切腹は残念の事に候故仔細を申上げてよりと存じ、其の間の命、御自分を見立て、御近附にてもなく候へども、御頼み致す。」と也。次郎兵衛胸をさまり、「私を人と思召し御頼み、過分至極に候。御心安く候へ。内に入り身支度も少しのおくれ、直ちに。」とこれ有り、けなりにて伴なひ、先づ筑前の方へと志し、都渡城迄、手を引いたり負うたりして、夜明けに山中に入りて隠す。其の時、「此の僞にて、御心底見届け申し候。」と、契りせられし也。其の前二年の間、次郎兵衛懈怠なく、山三殿登城の道筋の橋に通り合はせ、下城にも通り合はせ、毎日見送りしと也。
聞書第一 〇一八二 御小姓中島山三、百式次郎兵衛方に駆込み心底を見て契る 現代語訳 一、中島山三殿は、政家公の御小姓であった。船中で死去し、高尾竈王院に墓がある。中島甚五左衛門の先祖である。或る者が恋の叶わぬ事を遺恨に感じて、「七つ過ぎれば、二合半恋しい。」と言う小歌を教えた。御座にて諷した。古今無双の美少年と褒めたとの事。勝茂公も御執心であったそうだ。御出仕の時、山三殿が通りがけに殿の御膝に足が当たってしまった。すぐに下がり、御足を押え、謝罪の言葉を申上げられた。或る夜、百式次郎兵衛の、辻の堂屋敷に山三殿が参られ、申し入れなさったので、次郎兵衛は驚いて駆け出て、外に出合い、「御前に憚られる上に、よそに見られるのもよくないので、すぐにお帰りなさいます様に。」と言った。山三殿は「ただ今、逃れられない行き掛かりで、三人切り捨てたので、即座に切腹になるだろうが、心残りがあり、事の詳細を申上げてからと思い、その間の命を、貴殿を見立てて、親しいわけではないが、御頼み申す。」と言う。次郎兵衛は胸が落ち着いて、「私を見込んでの御頼みごと、過ぎたことです。御安心なさい。中に入り身支度をしている暇はない、直ちに。」と言って、普段着のまま伴って、まず筑前の方へと向かい、都渡城まで、手を引いたり負ぶったりして、夜明けに山中に入って隠れさせた。その時、「この嘘で、あなたの心底を見届けました。」といって契りを交わした。その前二年の間、次郎兵衛は怠ることなく、山三殿の登城の道筋の橋にい合わせて、下城にもい合わせ、毎日見送っていたと言う。