聞書第一 〇一七八 君父の御爲又諸人子孫の爲にするが大慈悲、慈悲は智勇の本 原文 一、大氣と云ふは、大慈悲の儀也。 神詠 慈悲の目にくしと思ふ人あらじ科のあるをばなをもあはれめ。廣く大なること限りなし。普くと云ふところ也。上古三國の聖衆を、今日まで崇め奉るも慈悲の廣く至るところ也。何事も、君父の御爲、又は諸人の爲、子孫の爲とすべし。これ大慈悲也。慈悲より出づる智勇が本の物也。慈悲の爲に罰し、慈悲の爲に働く故、強く故、強く正しきこと限りなし。我が爲にするは、狭く小さく小氣也。悪事となる也。勇智の事は、此の前得心せり。慈悲の事は、頃日篤と手に入りたり。家康公仰せに、「諸人を子の如く思ふ時、諸人また、我を親の如く思ふ故、天下泰平の基は慈悲也。」と。又寄親組子と申す事、親子の因み、一和の心を附けたる名かと思はれ候。直茂公、「理非を糺す者は、人罰に落つる也。」と仰せられ候は、慈悲よりの御箇条かと存ぜられ候。「道理の外に理あり。」と仰せられ候も慈悲なるべし。無盡なる事味はふべし。と精に入りて御話也。
聞書第一 〇一七八 君父の御爲又諸人子孫の爲にするが大慈悲、慈悲は智勇の本 現代語訳 一、大気と言うのは、大慈悲の事である。神詠に、慈悲の目にくしと思ふ人あらじ科のあるをばなをもあはれめ、と言う歌がある。広く大なること限りなし。これは全てにおいて言える事だ。古典の三国志の聖人達を、今日まで崇め奉るのも慈悲の広く至るところである。何事も、君父の御為、または諸人の為、子孫の為にしなければならない。これが大慈悲だ。慈悲より出てくる知恵や勇気が本物である。慈悲の為に罰して、慈悲の為に働くからこそ、強くなり、それ故に強く正しい事限りない。自分の為にするのは、狭く小さく小気だ。悪事となる。勇知の事は、ある時納得した。慈悲の事は、日頃から少しずつ理解した。家康公は、「諸人を自分の子の様に思う時、諸人もまた、自分の親の様に思ってくれるので、天下泰平の基は慈悲である。」と仰せになった。また寄親組子というものは、親子に因んで、一和の心で付けられた名だと思われる。直茂公が、「理非を正す者は、人罰に落ちる。」と仰せられたのは、慈悲から定められた箇条だと理解できる。「道理の外に理がある。」と仰せられたのも慈悲からだろう。尽きることがない事を思い知りなさい。と熱心にお話なされた。