聞書第一 〇〇五八 忠孝に背きたる者は置所なし、親の氣に入る様にと氏神に祈れ 原文 一、何某が養子鈍に候故氣入らず、殊に親長病にて氣短く相成り、不斷折檻仕り悪口を申し候に付て、養子居こたへ候儀成り難く、近々引取り申すべき様子に相見え候。此の事を養母參り候て、「何とも迷惑に候間、病氣ながら諸事堪忍候様に、親に御意見賴み申す」由申し候。斷り申し候へども、「是非共賴み申す」と涙を流し申し候故、力に及ばず請合ひ申し候。「親に意見は逆にて候。殊に病中也。倅を此方へ遣はし候へ。」と申し候。母不落着にて罷歸り候。倅參り候に付申し候は、「總じて人間に生れ出るも、生々の大幸と存ずべき事に候。其の上御當家の士と成る事、生前の本望也。百姓町人を見て思ひ知るべし。實父の遣領を取るさへ有難き事なるに、末子に生れて他の家を継ぎ、御被官の一人と成る事は、優曇華の仕合せ也。これを取迦して無足人になる事は不忠、親の氣に入らぬは不孝也。忠孝に背きたる者は世界に置所なし。よく立歸りて案じて見られ候へ。今其方の忠孝は、唯親の氣に入る迄也。氣に入り度くても、親の氣向きがわるきとのみ存ぜられるべく候。親の氣の直し様を敎え申すべし。私の面つき其の外物毎の親の氣に入り申す様にと、血の涙を流し、氏神に祈らるべし。これ私の事にあらす、忠孝の爲也。此の一念忽ち親の心に感應あるもの也。歸りて見られよ、早親の心直りて居るべし。天地人感通する不思議の道也、殊に長病なれば久しかるべからず、僅かの間の孝行、逆立するとも安き事也。」と申し候へば、涙を流し忝しと申して歸り申し候。後に承り候へば、歸りがけに親申し候は。「意見に逢ひたりと見えて、先づ見掛よくなりたり。」と、其の儘機嫌直り候由。誠に不思議の道理、人智の及ばぬ所也。其の時の意見ゆゑ、忠孝共に立ち候て忝き由、禮に參られ候。眞の道を祈りて叶はぬ事なし。天地も思ひほがすものなり。紅涙の出づる程に徹する所、即ち神に通ずるかと存じ候。
聞書第一 〇〇五八 忠孝に背きたる者は置所なし、親の氣に入る様にと氏神に祈れ 現代語訳 一、何某の養子の出来が悪く気に入られず、特に親が長病で気が短くなっており、普段から折檻をして悪口を言い、養子で居ることに耐えられなくなって、近々引き取る事になったようだ。このことを義母が来て、「何とも迷惑をかけてしまいましたが、病気であるため諸事、堪忍するように親にご意見お願いします。」と言った。断ったが、、「是非お願いします。」と涙を流して言うので、力及ばずながら請け合った。「しかし、親に意見は逆だ。特に病中である。倅をこちらへ遣わしなさい。」と返事した。母は納得しないまま帰っていった。倅が来たので「総じて人間に生まれたのは、大変幸せな事だと思わなければならない。その上、当家の武士になる事、生まれる前からの本望である。百姓町人を見て思い知るが良い。実父からの遺領を受けることでさえ有り難い事なのに、末子に生まれて他の家を継ぎ、ご被官の一人と成れる事は、優曇華の花を見るにも等しい幸せである。これを取り外して無足人になることは不忠だ。親に気に入られないのは不孝である。忠孝に背く者は世界に居場所などない。良く立ち返って考えて見なさい。今その方の忠孝は、ただ親に気に入られる事だけだ。気に入られたくてもそれが叶うのは、親の気持ちが分かった時だけだと思っておきなさい。親の機嫌を直す方法を教えよう。時分の顔つきやその他の物事を親が気に入りますようにと、血の涙を流し、氏神に祈る事だ。これは自分の為ではなく、忠孝の為だ。この一念がたちまち親の心に通じるものだ。帰ってみれば、早くも親の心は直っているだろう。天地人が感じ通じる不思議な道であり、特に長病であればもう長くは無いであろう僅かの間の孝行、逆立ちしても簡単にできる。」と話したところ、かたじけないと言って帰っていった。後に聞けば、帰ってすぐにに親が言ったことには、「話を聞いてきたと見えて、まず見かけは良くなったな。」と、そのまま、機嫌が直ったとの事だ。真に不思議な道理で、人智の及ばない所である。その時の意見の為、忠孝ともに立ってかたじけないとの事で、お礼に参られた。真の道を祈って叶わないことは無い。天地も思い通じる物なのだ。紅涙が出るほどに徹するところには、すぐに神に通じるのかと思った。