聞書第一 〇〇四七 道とは我が非を知る事、念々に非を知つて一生打置かざる事 原文 一、宗龍寺江南和尚に美作殿一鼎など學問仲間面談にて、學問の話を仕懸け申され候へば、「各は物識にて結構の事に候。然れども道にうとき事は平人には劣る也。」と申され候に付、「聖賢の道より外に道はあるまじ。」と一鼎申され候。江南申され候は、「物識の道に疎き事は、東に行く筈の者が西に行くがごとくにて候。物を知るほどに道には遠ざかり候。その仔細は、古の聖賢の言行を書物にて見覺え、噺にて聞き覺え、見解高くなり、早や我が身も聖賢の様に思ひて、平人は虫の様に見なす也。これ道に疎き所にて候。道と云ふは、我が非を知る事也。念々に非を知つて、一生打置かざるを道と云ふ也。聖の字をヒジリと訓むは、非を知り給ふにて候。佛は知非便捨の四字を以って我が道を成就すると説き給ふ也。心に心を附けて見れは、一日の間に悪心の起ること數限りなく候。我はよしと思ふ事はならぬ筈也。」と申され候に付、一鼎得道の由也。然れども武邊は別筋也。大高慢にて、我は日本無雙の勇士と思はねば、武勇を顯はす事は成り難し。武勇を顯はす氣の位これある也。口傳。
聞書第一 〇〇四七 道とは我が非を知る事、念々に非を知つて一生打置かざる事 現代語訳 一、宗龍寺江南和尚のもとでの美作殿や一鼎など学問仲間の集まりで、学問の話を仕掛け、「各々方は物知りで結構なことだ。しかし、道に疎いと言う点では普通の人に劣る。」と言われたので、「聖賢の道の他に道はないだろう。」と一鼎は言われた。江南申は、「物知りが道に疎いのは、東に行くはずの者が西に行くようなものだ。物を知るほどに道から遠ざかる。詳しく言えば、いにしえの聖賢の言行について書物を読んで学び、話に聞いて学び、見解が高くなり、もはや自分も聖賢の様だと思って、普通の人を虫けらの様に見なす。これは道に疎い。道と言うのは、自分の非を知る事だ。熟考し非を知って、一生立ち止まらない事を道と言う。聖の字をヒジリと読むは、非を知り給うと言う事だ。仏は知非便捨の四字を以て我が道を成就すると説きなさった。心に気を付けてみれば、一日の間に悪い心が起こる事は数限りない。自分は大丈夫だと思う事は無いはずだ。」と仰ったので、一鼎も悟りを開いたとの事だ。しかし、武辺に関しては別である。大高慢になって、自分は日の本無双の勇士だと思わねば武勇を現わす事は難しい。武勇を現わす気位はその様な物だ。口伝。