聞書第一 〇〇三六 名醫松隈享庵の眼療治、男の脈と女の脈との取替へ 原文 一、或人の話に、松隈前の享庵先年申し候由。「醫道に男女を陰陽に當て、療治の差別あ有る事に候。脈も替り申し候。然るに五十年以來男の脈が女の脈と同じ物に成り申し候。爰に氣が附き候てより、眼病の療治、男の脈も女の療治にして相應と覺え申し候。男に男の療治をして見申し候に、其の驗これなく、さては世が末に成り、男の氣おとろへ、女同然に成り候事と存じ候。これは慥に仕覺え申し候事ゆゑ、秘事に仕置き候。」と申し候由。是に付て今時の男を見るに、いかにも女脈にて是有るべしと思はるゝが多く、あれは男なりと見ゆるはまれ也。それに付、今時少し力み申し候はゞ、安く上手とる筈也。偖又男の勇氣ぬけ申し候證據には、縛り首にても切りたる者すくなく、まして介錯などといへば、斷りの云い勝ちを利口者、魂の入りたる者などと云ふ時代になりたり。股ぬきなどと云ふ事、四五十年以前は男役と覺へて、疵なき股は人中に出されぬ様に候故、獨りしてもぬきたり。皆男仕事、血ぐさき事也。それを今時はたはけの様に言ひなし、口先の上手にて物を濟まし、少しも骨々とある事は、よけて通り候。若き衆心得有り度き事也。
聞書第一 〇〇三六 名醫松隈享庵の眼療治、男の脈と女の脈との取替へ 現代語訳 一、ある人の話で、松隈前の享庵が昨年以下の様に述べたそうだ。「医道に男女を陰陽に当てはめて、治療にも違いがある。脈も替わるのだ。ここ五十年以来男の脈が、女の脈と同じものになった。ここに気が付いてから、眼病の治療で、男の脈も女の治療で相応であると分かった。男に男の治療をしてみたところ、その効果がなく、さては世も末になり、男の気がおとろえ、女同然になったと思っている。これは確かにやってみて分かった事なので、秘事として置いた。」と言ったそうだ。これに付けて今時の男を見ると、いかにも女の脈だろうと思われる事が多く、あれは男だと見えるのは稀だ。それに付け、今時少し力んだら、簡単に上を取ることができる筈だ。さてまた、男の勇気が抜けている事の証拠には、縛り首はしても切るものは少なく、まして介錯などと言えば断るのが利口者で、魂の入った者などと言う時代になった。股抜きなどと言うの、四、五十年以前は男の仕事と思って、傷のない股は人前に出せないので、自分で抜いたものだ。男の仕事は皆、血なまぐさいものだ。それを今時はたわけ者の様に言い、口先の上手さでものを済ませて、少しでも骨のある事は、避けて通る。若き者は心得てほしい事である。