聞書第一 〇〇〇八 石田一鼎の慧眼、相良求馬外何某の末路を言い當つ 原文 一、一鼎話に、「相良求馬は、泰盛院様御願に付て出現したる者なるべし。抜群の器量也。毎歳暮後願書御書かせなされ候。御死去前年の御願書、寶殿に残り居り申す事あるべし。求馬末期に不足の事有り、「我等に相似合はざる大祿を下され御恩報じ奉らざる事に候。伜助次郎幼少にて、器量相知れず候。されば、御知行返上仕り候。名跡緒立て下さるるに於いては助次郎器量次第相應に下さるべし。」と申す所也。求馬程の者がぬくる筈はなし、病苦にて忘却かと思はるゝ也。」笑止なる事は「三年の内に家潰れ申すべく候。荷ひきらぬ御恩也。又何某は發明也。のだらぬ風の奉公人也。四五年の内、是も身上崩すべし。」と申され候が、少しも違はず、不思議の眼と存じ居り候。それより氣を附けて見るに、のうぢもなき奉公人、今何年ばかりと云ふ事は、大かたみゆるもの也。 助次郎 相良求馬 浪人の事、御目付山本五郎左衛門、門の戸に張紙有り。求馬百姓あたり宜しからぬ由也。御改めの處、宜しからざぬ事のみこれある故、家来數人御咎め、知行主に候故、求馬浪人仰付けられ候。
聞書第一 〇〇〇八 石田一鼎の慧眼、相良求馬外何某の末路を言い當つ 現代語訳 一、石田一鼎の話によれば、「相良求馬は、泰盛院様の御願の結果、出現した者に違いない。泰盛院様は抜群の器量である。毎年暮れに願書を御書きなさっていたのだ。泰盛院様がお亡くなりになった前年の御願書は、宝殿に残っているだろう。求馬の末期は不足していたところがあり、『我等に不相応なほどの大禄を頂いていることに対してご恩を報じることができません。伜助次郎は幼少であり器量がどれほどがまだ判りません。そうでありますので、御知行(領地の支配権)をお返しいたします。名跡をお立て下される時には、助次郎の器量に見合うほど下さいませ。』と言べき所だ。求馬程の者がぬかる筈はない。病の苦しみで忘れていたのかと思われる。」との事。おかしなことに「三年の内に家が潰れると申した事だ。担いきれないご恩だ。また、何某は賢いが、出世はしそうにない奉公人だ。四、五年の内にこれも身を崩すだろう。」と申された事が、少しも違わず人知を超えた眼と存知ている。そこから気を付けてみると、見込みのない奉公人が、あと何年ばかりかと言うことが大方わかるものだ。 助次郎 後の相良求馬が浪人となったと、御目付山本五郎左衛門の門の戸に張紙が有った。求馬の百姓の扱いが良くないとの事だ。改めてみたところ、良くない事ばかりが見つかったので、家来数人にお咎めがあり、知行主であるので、求馬は浪人を仰せ付けられた。